カラシと毛糸のパンツ    2005−1−9(日)

 今日は、ラオス大使館の友人からお招きに預かった。であるからに、いつもはジーパンばっかりの私も、ちゃんとストッキングなんかをはいて、きちんとしていかなくちゃいけない。母の前で、私が着替えていたら、「今日は寒いわよ。あんた、もう少しちゃんと長いもの着たらどうなの?」と言う。長いもの・・・とは、ガードルとかその手の暖かい下着のことだ。

「嫌だよ、股引とか、すててことか、そんなのはかないよ」と私は答えていたら、にわかに目に、毛糸のパンツが浮かんできた。それは、そう、柿色の厚手の毛糸のパンツで、しかも!さるまたの形をしていた。私が小学校3、4年生の頃、はかされていたものだ。私はその柿色の毛糸のパンツが大嫌いだった。でも、冬、学校にはいていかないと、母に怒られた。私は病弱であったし「風邪をひくから」と、脱ぐとそのたびに怒られて、しぶしぶはいていた。

 だって、かっこわるいのだ。あの頃、他の女の子だって、毛糸のパンツをはいていた。でも、大抵みんな紺色でそんなに厚手ではない、しかも、それはさるまたみたいじゃなくて、もっと普通のパンツの形をした毛糸のパンツだった。ワンポイントでお花の刺繍がしてあったりした。あれだったら、かわいいけど・・・・私のは、どうしたって、恥ずかしい。しかも、柿色!厚手、さるまたみたいな形。私は、その毛糸のパンツが大嫌いだった。

 当時、学校から帰ると、ランドセルを家にほっぽりだして、みんな、近くの団地の広場や公園に集まって遊んだ。男の子も女の子も一緒に遊んだけれど、あの冬の頃、プロレスごっこが流行っていた気がする。土の上に輪を書いて、二人が対決し、みんなは外で観戦し、勝ち抜き戦なんかやっていた。女同士のプロレス対決もあった。私はいつもクラスで一番小さかったけれど、負けず嫌いでもあったし、みんながワァワァとはやす中、インド帰りの裕子ちゃんと、取り組んだのだ。あの頃は短い吊りスカートが普通で、それでとっくみあいだから、柿色の毛糸のパンツが丸見えになった。私は裕子ちゃんに負けたけど、それよりも「わぁ、あんな毛糸のパンツはいてらぁ」とはやし立てられて、柿色の毛糸のパンツをはいていることが、みんなにばれてしまった。恥ずかしくてたまらなかった。

 と、そのことを、いきなり思い出した。そこで母に言った。

「おかあさん、小学校の時、私に柿色の厚手の毛糸のパンツをはかせたでしょう。本当にいやでいやで仕方なかった。だから、そのことがトラウマになって、私は今でも、その手のものが嫌なのよ。」

 母は「そうかねぇ、全然覚えていないよ。嫌なら嫌だって言えばよかったのに、」と母は言う。嫌だと言っても請け合ってくれなかったから、私には本当に重大問題だったのに、母の方は毛糸のパンツのことなどすっかり忘れている。

「それに、カラシだってそうよ」

 小さい頃、しょっちゅう喘息をおこしては、ぜぇぜぇいっていた私は、よくカラシ湿布を胸と背中全面にされた。いわゆる、普通のおでんには欠かせない、あの黄色いカラシを温めてたくさん練って布にべったりと付け、ピターと身体に貼り付けて湿布するのだ。きっと、それは身体を暖めて血行をよくする効果があったのかもしれないけど・・・・ツーンときて肌はピリピリと痛い。兄の方は健康児であったが、たまに病気して、カラシ湿布をされると、母いわく「一丁先まで聞こえるように、大騒ぎして泣いたねぇ」。私も兄が湿布をされて大泣きしてぶりぶり怒っていたのを覚えている。普段は泣き虫の私の方は平気だった。あまりにしょっちゅうだったから慣れっこになったのだ。でも、布いっぱいにつけたカラシの色。肌につけた時に痛さと、ツーンとする匂い、だんだん痛さが弱まってくる頃には、肌に残る冷めたカラシの感覚・・・・私にとっては、カラシといえばカラシ湿布の記憶だ。だから、今、カラシが嫌いだ。食べられないわけではないが、おでんにもつけたくない。芥子和えも苦手。ついでにわさびもあまり強くない。トウガラシだったら、真っ赤になるほど振りかけるくせして、黄色いカラシはどうしても苦手。きっとそれはカラシ湿布のせいであろう。

毛糸のパンツとカラシは、それが私のトラウマである。

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